LOVE LOST 6

6.抑えられない衝動

 どんよりと暗く曇った空。灰色の分厚い雲で、空は覆われている。ぽつぽつと降って来ていた雨の雫が、蛇口を開きっ放しのシャワーのような勢いになって、 男 の元へと降り注ぐ。
 すっかりずぶ濡れになってしまった衣替えしたばかりの制服の前を、申し訳程度にかきあわせる。傘を差して足早に正門をかけ抜けていく学生達を、薄くもや がかかったような視界で男はぼんやりと見ていた。
 静かな雨の日は、目を逸らしていた古傷がしくしくと痛みだすような埒もない感傷にふっと心を捕われる。
 前髪を伝って大きな雫が目に入ってきたので、濡れた手で何度も拭っ た。

 頭の上に影が出来て、降り止まない雨から遮断される。
「キヨスミでしょ? なにやってんの?」
 雨が降ってるというのに傘も差さずにずぶ濡れの男の頭の上に、リョーマは少し手を伸ばして自分の傘を差しかける。
「……リョーマくん。早かったね。あー、そっか。雨降ってるから、青学も早めに終わりなんだ」
「アンタ、傘はどうしたの?」
 千石はかなり前からいたらしい。白い学生服がぐっしょりと水分を吸収している。
「雨降って来たのには気づいてたんだけど、コンビニに行くのも面倒でさ。リョーマくんがその間に帰っちゃったら、オレが来た意味ないじゃん」
 訝しげに覗き込んできた瞳と目を合わせて、へラッと顔の薄皮一枚で陽気に笑って見せた。
「バッカじゃない。雨宿りするとかさ、こう言う時にメールとか電話すればいいのに」
 静かな千石にどこか調子が狂うものを感じながら、ずぶ濡れでへちゃっと潰れている千石の頭を呆れ気味に見た。
「ああ、そうだったね。気づかなかったな……」
 本格的におかしそうだ。ぼんやりしてるし、反応も鈍い。
「風邪引く前に、さっさと帰るよ。バカでも、夏は風邪ひくって言うしね」
 動きまで鈍い千石の手を引いて、キビキビと千石の家がある方向へと足を進める。
「別に家でもいいけどさ、ホテルの方が……」
「バカっ! アンタなんか、一人で帰れよな!」
 ばっと火傷をした時のような物凄い勢いで千石の手を離して、リョーマは薄っすらと顔を赤くしながらまくしたてる。
「えー。オレ、ホテルでエッチしようとかなんて全然言ってないよ? ただ、シャワーがすぐに浴びれて、温かくなれる所を言っただけなんだけどなぁ」
 してやったりと言ったニヤニヤとした笑みを、千石は浮かべる。
 千石と言えば、ついそっちの方向に考える癖がついている自分を恨んだが、そもそもそんな誤解をさせる千石が悪いのだ。ぶすっとした顔になって自分にだけ 傘を差して、びちゃびちゃと水溜りを踏み潰しながらさっさと歩き出す。ばちゃばちゃと激しく水音をたてながら、慌てた顔で千石が追いかける。
「──ねえ、明日晴れたら、海に行かない? そろそろ、水温も上がって来ただろうし、夏と言えば海でしょ!」
「海ー? ま、部活も休みだからいいけど」
 唐突な会話の変遷に驚きながらも、別に異論はなかったので頷く。
「よっし、約束ね!」
 リョーマの手を握って、約束させる。その所為で地面に落としそうになった傘を、落ちる前に千石が拾う。
「あ、傘、オレ持つよ」
 背が高い千石が持ってくれた方が2人で入る場合、確かに楽だ。でも、この不気味な笑顔はなんでなんだろうと、ちらりと千石の様子を窺った。
「えへへ。嬉しいな」
 くるりくるりと傘の柄を回転させる千石。傘にたまっていた雫が降って来るのを避けながら、濡れないよう距離を縮めた。
「なんか、いいことでもあった?」
「憧れの愛の相合傘大成功デス! 恋人が出来たらさ、雨の日にはいつかやりたかったんだよね〜」
 雨の雫を髪の毛の先から飛ばしながら、頭を揺らしてニコッと笑う。
「まさか……、その為に、傘忘れたんじゃ?」
 そんな馬鹿げたことあるわけないよねーと続けようとして、リョーマは言いよどんだ。千石ならありえるかもしれないと言うことを思い出してしまって、沈黙 が走る。雨がぼたぼたと傘の上に大粒で落ちて来たのが合図だったかのように、懸命に千石は否定する。
「ただの偶然だって、偶然!」
「そういうことにしといてあげるよ」
 必死に否定する千石の姿が余計に怪しく見えて、ふふっと笑みを零した。




***

 昨日の雨が嘘のような雲一つない晴天。
 光を反射しまくる砂浜の上に立っているだけで、じりじりと肌が焼けていく気がする。フライパンの上で熱せられている卵みたいだ。でも、卵だったらこんな もん じゃ済まないかと思いついて、海から吹いてくる強い潮風にオレンジの髪をばさばさといいように飛ばされながら笑っ た。
 折角来たのに波が強くて泳げないのは残念だけど、まだ海には別の楽しみがある。
「オレが後から追いかけるから、リョーマくん逃げて」
 にこにこと笑顔で、海辺での追いかけっこを千石が提案する。
 やれやれと思いながら、凝ってもいない肩をぐるっとまわした。昨日のはやっぱりわざとに違いないことをリョーマに強く確信させた。
「バーカ」
 振り向いて口元だけで笑って見せて、そのままダッと勢いよく走り出す。キャッキャと海の水をかけてじゃれあいながら追いかけっこするという千石の夢を、 たったの数秒で打ち壊した。記録でも取る気かと思うくらい速い。
「ちょっと、全力疾走はなしでしょ! 待ってってば、ねえ!」
 夢見ていたシチュエーションと、全く違う。シルエットと化しそうなリョーマを追いかけて、部活の時よりも必死に汗まみれで駆ける。
 もうちょっと手を伸ばせば、身体がつかめそう──腕がやっとつかめたと思った瞬間、自らが走っていた勢いがあまって、リョーマを砂浜に押し倒してし まう。柔らかい砂の上とはいえ、かなりの勢いがついていたことを思い出して、千石は顔色を変えた。
 身体を砂まみれにさせて、リョーマは目を閉じて倒れたままぴくりとも動かない。倒れてから時間が経っているというのに、まるで起き上がる様子が見られ ない……。
 フラッシュバック。あの時の血にまみれたリョーマの映像が千石の頭に蘇える。胸の辺りに氷を詰められたように、身体が竦みあがる。それでも自分が出来る ことを 考え、震える唇を噛みしめてリョーマの名を呼ぶ。
「リョーマくん! リョーマくんってば、起きてよ!」
「ウソ。これくらい平気に決まってんじゃん」
 パッと目を開けて、二カッと笑った。
「…………そんなに驚いた顔して、どうしたの?」
 身体を起こして凍りついたように固まっている千石の側に行くと、構える間もなく胸の中に強引にかき抱かれた。ドクドクと激しすぎる胸の鼓動が言葉よりも 早く、千石の心情を リョーマに伝えた。
「心配したんだから……。このままリョーマくんが……、どうしようって思って……俺……」
「──ごめん。そんなに、アンタが心配するなんて思わなくてさ」
 千石の真剣さに押されて、自分の軽はずみな行動をリョーマは反省する。
「あ…、えーと、うん。オレこそ、心配しすぎてメンゴ」
 自分の過剰すぎる反応をかき消すように、あははっと笑いながら頭を後ろ手でかく。まだ震えが残っている腕を、リョーマの前から自然に隠した。
「アンタは、謝ることないよ。俺の所為なんだから」
 悪いことをしたといった風に気まずげに唇を噛みしめているリョーマの肩を、ポンポンと叩く。
「んー。じゃ、たまには、リョーマくんの方からキスしてよ。それで、チャラにしよっか?」
 シメシメと言った顔で笑う千石の頬を両手で挟んで、唇を近づけて素早くキスをした。
「……え? いまの?」
 きょとんとして、千石はとても驚いた顔をしている。
 大成功だ。こういうのは、時間を置く程恥ずかしくなるのだ。
「えー、いまの早すぎだよー。もうちょっと感触を味わいたかったな」
「しょうがないな」
 情けない顔をしている千石にさっきのお詫びも兼ねて、特別サービスでもう一度キスをした。
 囁くように耳に届く潮風。鼻に届く塩の匂い。目に映る眩しい海の青。肌を焼く太陽のぎらぎらした日差し。周囲の熱に煽られるように、2人の身体も熱をあ げていく。これだけで終わらないキスを千石の方から仕掛けられて、リョーマも千石の背中のシャツをぎゅっと握りしめて、キスに応える。誰も2人を見ていな いのをいいことに、目を閉じていても眩しいほど明るい場所で、長いキスをもう一度 交わした。



 未成年なのに千石がライターを当り前のように持っている理由をリョーマからねちねちと追求されながら、2人っきりの小さな花火大会が始まった。夕陽が沈 んだばかりなので、まだ辺りは薄明るい。
 最初は、勢いをつける為に、打ち上げ花火。「大爆龍」という凄そうな名前の割には威力がへこかったり、火をつけたネズミ花火が千石の方にばかり寄って行 くのを笑ったりしている内に、コンビニで調達した花火の数は残り少なくなっていた。

「なにやってんの! そんなに一気に火点けたら、もったいないでしょ!」
 線香花火の束をその束ごとライターで燃やそうとしているを見かけて、慌てて千石の腕から叩き落とした。
「だーってさ、地味で寂しいんだもん。一気に火つけて終わらせれば、未練も残らなくてよくない?」
「よくない! 俺、線香花火好きなんだから」
なんで、そんなことするかな。アンタって、時々信じらんないことするよね。ぶつぶつと文句をつけながら、束をばらして2等分にする。
「これで、最後の花火だね……。寂しくなるよね」
 揺らさないように気をつけて持っている千石の線香花火から、ジジジ、バチバチと火花を散らす音がする。
「──でも、こういうのってさ、終わりがあるからこそ楽しいんじゃないの?」
 長く続くことを祈るように、リョーマはオレンジ色をした小さな熱の塊をじっと無心に見つめている。ぼんやりと薄暗いオレンジ色の光で照らされるリョーマ の 顔を見ていられなくなって、千石はすっと目を逸らす。
「終わることがわかってたら、そんなの楽しくないよ……」
 火種が落ちてしまう前に、自分で砂浜に落として足で火を乱暴に踏み消した。


 海辺に沿って点々と設置されている街灯を頼りに元来た駅へと向かっていると、歩道より1m位高くなっているコンクリートにリョーマが足をかけるのが見え た。辺りが暗いので、足元を見ながら慎 重にリョーマは歩いている。
 目の前に、街灯に照らされてほの白く光るリョーマの項が見えた。ふと、魔が差す。
 いつか自分の目の前からいなくなってしまうのならば、自分で破壊したとしても同じことではないか。時期さえも解らない不幸な未来を怯えながら待つより は、いまこの手で全てを────。
 リョーマと同じように、上へと駆けあがる。
 片手でつかめそうな細い首筋に手をかけようとして、背後からそっと近寄る。
「……なに? ここから、海に落としたら怒るよ。着替えなんて持って来てないんだから、勘弁してよね」
 千石の気配を背後に感じて、この状況で男がやりそうな悪戯をリョーマは事前に注意する。
「…………どうしたの、キヨスミ?」
「なんでもないよ。なんでもね」
 首を振りながら、苦い微笑を浮かべる。最初から、そんなことが出来るわけがないのだ。失うことに恐怖を感じるくらい愛しくてたまらないキミを、自分の手 で奪える訳なんてない。
 恐怖感を振り払うように、背後から力いっぱいぎゅっと抱きしめた。
 誤魔化すように、リョーマの耳元の髪をかきあげて口を近づけ、耳打ちする。
「ねえ、砂まみれになっちゃったし、ホテルでシャワーでも浴びて行かない? さっぱりして、スゴク気持ちイイと思うんだけど」
 頭を後ろにぐっと逸らして、千石と反対向きで顔を合わせて睨みつける。
「アンタが急に海に行きたいとか行ったのって、そっちがメインだったんでしょ?」
「違うってば、ヤダなぁ」
 目尻がたらーんとだらしなく下がった千石のニヤケ顔が、リョーマに全てを悟らせる。
「アンタって、ほんとにっ!」
 言いようがない思いで、ふるふると拳を握り締める。
「えへっ。やっぱ、ばれちゃった?」
 悪びれない顔で、ぽりぽりと頬を指でかく。
「アンタの考えてることなんか、俺にはバレバレだっての!」
「えー、身体だってべたべたしてるしさ。なんかはしゃぎすぎて疲れちゃったし、泊まっていこうよー。なんにもしないからさ」
 シャワーだけから、数分も待たずにお泊りへと変化させる早業に、リョーマは言葉を挟む隙間すらなかった。
「普通のホテルに泊まるよりか、安いし。ねっ」
 パチンと小粋にウインクする千石。
「……っ。ほんとに、なんにもしないからね」
 まともにウインクを食らって不思議とときめいた自分を恥じだと思いながら、念を押す。
「中にプールがある所とルームサービスがいい方なら、どっちがイイ? いやいや、お風呂が大きい所の方がいっかな」
 やけにこの辺のホテル事情を詳しく語り出す千石を本格的に疑いながら、結局リョーマはその後を着いていった。
 別に、リョーマだって、そういうことが嫌いな訳じゃない。千石が好きって言うのもあるし、痛くもあるけど気持ちもいいわけだし。ただ、はりきってホテル に行こ う!みたいな千石のスタンスがリョーマを恥ずかしくさせるのだ。
「俺、疲れたから、お風呂が大きいトコがいい」
 期待に顔をぱっと輝かせる千石の前で、
「あと、もうねむい……」
 ぼすっと、千石の胸にその顔を埋める。くたっといった感じで全身の体重を預ける。
「リョーマくんってば、寝ちゃダメだって。大人の時間はこれからなんだから!」
 身体を揺すっても反応が返って来なくなってきて、そんなリョーマを見ているのが可愛くてたまらないと言った体で、千石はふわりと微笑んで、
「もう、しょうがないなあ。完全に意識がなくならない内に、腕だけでも首にかけて」
 抱きかかえて場所を平地に移して、リョーマの前でしゃがむ。ぼーっとしながらも反射的に千石の指示に従うリョーマを背負って、歩き出す。
 夜になって風が冷たくなったからか、少し肌寒ささえ感じる。それでも、背中に感じる温もりが千石を癒していた。
 最悪な選択を取らなかった自分を、この時初めて本当に良かったと思った。






バカップルではないようで、実はバカップルっぽいことを結局しちゃったりしている2人。梅雨も明けて、楽しい夏休み直前。
06/08/23 up
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