26. 今何時だと


 無意識なのか、それとも意識的な計画かは知らないけど、なんでそんな健気なことをしてくれるんだか。
 ベッドの上にある時計で時刻を確認すると、午前三時二十八分だった。 通常だったら絶対起きてはいない時刻で、リョーマが気づく可能性はかなりない。
 トイレから戻ってきてカーテンの閉め忘れに気づかなかったら、気づきもしなかった。 それだって、その時に外を見るかなんて、賭けるにも値しない脆弱な可能性だ。
 これは、ラッキー、それとも、アンラッキー。あの男にとって、この状況はどっちなんだろ。
 寝起き特有のどこか曖昧化しそうな思考の中で、つきつめるように考える。
 街灯にもたれて、二階のリョーマの部屋がある場所をぼんやりした様子で眺めている。 白の学生服が黄色いぼんやりした薄明かりの中でも、はっきりと目立っていた。 吐き出す白い息が上に立ち昇って、一瞬ですうっと消えていく。まるで、男の存在さえも幻かのように思えた。
 バッカじゃない。なんの生産性もない。ただの徒労でしかないし。なんのついでなんだよ。
 気づいて欲しいだなんて、思ってもいない。知らせもしないのに、気づくわけがない。
 このまま、気がつかない振りをしようかと思った。カーテンを閉めようとして伸ばした手を、ぎゅっと拳の形に握りしめる。
 気づいて放っておくなんて、余計に──後に続く言葉を、腹の中に飲み込む。
 あのバカ。あの男を罵るのは、今日でこれで二回目になった。



「──何のつもり? 帰り道でもないくせにさ。不審者丸出し。通報とかされたら、どうすんだよ」
 言いたいことはこんなことじゃないのに、無性に苛立ちが後から後から沸いて出てきて口が止まらなかった。
 パジャマの上にダッフルコートを着ただけなので寒いはずなのに、頭がかっとしているからかそんなことは感じなかった。
「夜更かしだね」
 いきなり現れたリョーマを見ても驚く様子はなく、千石はそっと唇で微笑を作る。
 平然としている男の姿が、かえって内にこもったなにかを隠していることをかいま見せた。
 理由がなきゃ、あんなことしない。その、理由がなかったら……?
 その先まで掘り下げるのが怖くて、感じるまま動く。
 距離を詰めて、千石の右手をつかんで背伸びをする。素足に履いたローファーから、踵が浮く。 色気も素っ気もなく唇を押し当てて、僅かに開いていた唇の中に強引に舌を押し込んだ。
 触れた唇は乾いていて、冷たい。苦い。ぱっぱっと医者の診察のように判断して、すぐに離れる。煙草も吸っていたみたいだ。
「こういうのも、受動喫煙に入っちゃうのかなぁ」
 触れられた唇を指の先で確認するように触ってから、特に驚きもせずに的外れな感想を千石が言い出す。
 リョーマは、じくじたる思いに捕らわれる。
「──アンタが!」
 もういい。自己完結して口火を閉じて、鋭い視線を向ける。ボタンも留めていなかったコートの前を開けて、大きく腕を広げて千石の身体を抱きしめる。 触れた身体が冷たすぎて、一段と腹が立つ。本人がそのことに無頓着なのが、尚更その思いを募らせた。
「そんな格好じゃ、寒いよ?」
 どこの誰がそんなことを言えるんだ。まともな防寒をしていない千石にこそ、言いたかった。
「寒いから、くっついてんだよ。悪い?」
 抱きついた腕にもっと力を込めて、べったりと密着する。くっついた方が冷たいだなんて、かなり前からここにいたに違いない。 それを考えて、ため息とも吐息ともつかない息を吐き出した。
 千石の制服の胸倉をつかむようにして、自分の顔を近づけさせた。
「今度から、起こせよ」
 乱暴で簡潔な指示に、千石は意味を読み込み中とばかりにゆっくりと目を瞬かせる。
「リョーマくん、起きないじゃん」
 しげしげとした顔で千石が指摘する通り、起きないかもしれない。自分でも、眠りの深さは自覚済だったから。
 でも、千石からコンタクトを取られているかどうかで、違うと思った。……起きるかもしれないし。
 罰が悪い思いにとらわれそうになって、話を違う方向に変えられていることに気づく。 それに、元々があんな常識外なことをする千石が悪い。
「じゃ、あんな顔して外に立ってんなよ。心配で、俺が夜眠れなくなったらどうすんのさ」
「それは……、ないよ」
 意気込むリョーマに対して、考えもせずにあっさりと答える。
「なんでだよ!」
「リョーマくんは、心配しないよ」
 諦めたような口振りで、首を振る。
 自分の存在意義を否定された気がして、どうしても認めさせてやりたくなった。
「するよ。恋人なんだし」
 まだ納得が言ってなさそうなので、簡単な例えを出してみる。
「いまの状況、全部俺に置きかえてみて。心配じゃない?」
「うん。超々心配になるね」
 真剣味が感じられない千石の反応に、イライラが募っていく。
「ふざけてんの? 俺、真剣に話してんだけど」
「リョーマくん、ちょーっとそれは痛いかなって」
「痛いようにしてんだから、当たり前だろ」
 俺だって、痛いっての。頭つきをくらわしているので、リョーマにもダメージは来る。気持ち的な方が、それでも痛い気がした。
 無理をさせてでも、この男の複雑な内面を吐かせるべきなのか。ここまできたら容疑者をどうやって自白させるかどうか考える刑事みたいでヘンだし、リョーマの柄でもない。 そういう扱いも間違っているんじゃないかって、思う。
 こんなことを思うの、自分だけの思いあがり?
 ふいに、自分が立っている場所が氷の上のような気がした。 分厚い氷に覆われていると思って歩いていたら、そこは薄氷で慌てて足をどかして後戻りする。 どこを進めばいいのかわからなくて、安全だってわかっている場所で足踏みしている。
 ──それでも、一歩踏み出さなくちゃ。その一歩が安全か危険かなんて、そんなこと誰にもわからないだろ。 本当に安全な場所なんて、きっとどこにもない。落ちたって、落ちた所から這いあがればいいだけの話だ。
 その方がリョーマらしいと、胸をはって言える。迷路を抜けたような爽快感が、体中を巡る。
 リョーマの体温が移って人間らしい体温に戻った身体から離れて、千石の手を上からそっと握りしめる。
「ウチ来る?」
「いいよ」
「静かに入ってね。まだ寝てるから」
 両親はあんまり喧しい事を言うタイプではないけれど、起こすとうるさいし迷惑だ。まだ起きるにも早すぎる時間だし。
「違うよ。遠慮するってこと」
「遠慮しなくていいよ」
 リョーマは、ニッコリと笑う。そのまま、にらめっこのような笑顔の騙しあいが始まる。 先に、千石が勝負から降りることにしたみたいだ。
「だいじょうぶ。リョーマくんにも会えたし、このまま帰るよ」
 こんな言葉で放っておけるんなら、最初から放っておく。落ち着いた顔、引き際の良さ。その全てが、心配へとシフトする。
「じゃ、俺もついてく」
 勝手に行かれないように、袖をつかむ。ただクスクス笑いをこぼす千石に、むっとする。 コートはいいとして、パジャマのズボンとローファーで足元はちぐはぐで、そのことを揶揄されている気がした。
「だって、やなんだもん。いまアンタと、このままで別れたくない」
 そこまで言っても折れない千石に、実力行使に移る。寝不足で不機嫌なのは本当なので、その分迫力は増す。いつもより眼光が鋭い。
「──俺の貴重な睡眠時間奪った責任とれよ。こんなんじゃ、おちおち寝てられないだろ」
「オレが負けました。リョーマくんのウチに行きます」
 リョーマの身体にまわした右腕で、ぽんぽんと右肩をたたかれる。
「初めから、そう言えよな」
 言質を取ったが逃げられそうなので、腕をつかまえてずるずると家の玄関の方へと引きずるように連れていく。
「ハイハイ。全くもって、リョーマくんの仰せの通りでゴザイマス」
 じろりと睨みつけると、メンゴメンゴと軽い調子で謝られる。
 千石の雰囲気が変わったことで一抹の安堵を覚えると同時に、つかみかけた鍵を逃したような気がしていた。

 開けっ放しだったドアをそっと閉めて、元通りに鍵をかける。時間が時間なので足音を忍ばせて、階段をあがる。
 自分の部屋に入ってようやく落ち着いて、呼吸をする。
 後ろで笑う気配がしたので振り返ると、
「ねえ、この感じさ、親に内緒で間男入れてるみたいじゃない?」
 いいね〜。ちょっと萌えるシチュだよねと、千石は楽しげに目を横に動かす。
「アンタの所為だろっ!」
 状況を面白がっている千石が不謹慎だと思って、小声で怒る。
 かけ布団をはいで、ベッドにもぐりこむ。ベッドから出ている間に、すっかり熱は奪われてしまっていた。 冷たくて落ち着かなくて、ごそごそと身動ぎする。ベッドの横につっ立ったまま入ろうする気配がないので、手で来いよと呼び寄せる。
「早く入んなよ。床で寝たいって言うなら、止めないけど」
「今日のリョーマくん……優しい気がする。別人?」
 真顔で聞かれて、日頃千石がどう思っているかが窺えた気がする。
「俺って、そんなに冷たいヤツって、アンタに思われてんの?」
「あー、そういうわけじゃないけど。サービスが良いから驚いちゃって」
 わざとらしささえ感じるからかうような口ぶりには頓着せず、リョーマは思ったことをそのまま言う。
「俺がしたいから、してるだけ」
 空けてある隣に、千石が潜りこんで来る。中がまだ冷たいのは変わらないままなのに、千石の気配があるだけで温かく感じた。 狭くなるのは承知で、身体を近づけた。
 千石の顔が呼吸がかかるぐらい側に、近づいてきた。拒まずに、そのままキスを受け入れる。まだ唇は、冷たかった。
 もう一度唇を押し当てられて、上唇を何度も柔らかく食まれる。味見するように舌で舐められて、口内に戻ろうとするのを舌で追う。 お返しをするように、先を尖らせた舌で千石の唇の周りをなぞる。リョーマも真似をして唇で挟んで、何度か食んでみる。 くすぐったそうに千石が顔をしかめるのが面白くて、熱中してしまう。
 遊んでいるだけだと物足りなくなって、深いキスをしやすいように角度を変えて腕で頭を引きよせる。
 潜る前の準備のように深く呼吸をしてから、唇を合わせる。密着感が段違いで、足りない所を埋め尽くされたような充足感がたまらない。 器用に絡んでくる舌は、唇と違って熱かった。
 離れても、またすぐに一つになる。
 お互いの口の中を行き交う時の水濁音。どちらのものともわからない程に混ざりあった唾液。少しづつ異なる息遣い。キスをしている自分達ににだけ知覚できることだと思うと、リョーマの身体の奥をズクンと甘く痺れさせた。
「お返しって、三倍返しぐらいだよね」
 呼吸をいまだ弾ませたままのリョーマに、上機嫌そうにウインクする。
 日本人なのに、ウインクをする仕草がこんなにも似合うのが不思議だ。男だけど、チャーミングな感じだから似合うのかも。まだ酸素不足の頭で、ぼーっとした思考を走らせる。
「どーも。お陰で、いい夢見れそうだよ」
 頭がくらっとする。睡魔が訪れたらしい。怒りでテンションと気力を保っていたけど、もう限界みたいだ。まぶたがすごく重たい。目を開けているのがつらい。
「…………さっきまで、マジで弱ってたクセに。あんなんで……、礼になるとか」
 ぶつぶつと罵りながら、千石の腕を首の下に敷いてどこかにいってしまったマクラ代わりにする。
 朝になって腕が痺れて動けなくなっても、そんなことはリョーマの知ったことではなかった。睡眠欲が最優先されていた。



***

 急に、意識がふわっと浮上する。現実に立ちもどるとすぐに、手探りで辺りをまさぐる。
 隣に寝ていたはずなのに──いない。鼓動が激しく高鳴り始める。
 まぶたを勢いよくこじ開ける。部屋の中なんてすぐに見渡せてしまえるので、ここに千石がいないことはすぐわかった。
 朝練の為に仕掛けた目覚ましがもうすぐ鳴るので、鳴り始める前に停止させておく。
 寝不足で重たい身体をごまかして、立ちあがる。階下に下りて心当たりの場所を探すだけ探したけど、見つからない。
「あんなに騒がせといて……、夢かよ。最悪」
 そう毒づきながらも、夢じゃないと確信していた。
 顔を洗ってから、鏡を見ながら寝癖を申し訳程度に撫でつけていると、はっと思いついたことがあった。
 階段を二段飛ばしで、駆けあがる。下からオヤジの怒声が聞こえたけど聞き流して、部屋に戻る。
 勢いよくベッドにダイブして、マクラを両手でぎゅっと抱きしめる。
 ──やっぱり、夢なんかじゃない。
 キツイ煙草のフレーバーと香水の香りがまだ微かにする。リョーマの記憶に、間違いはなかった。
 残り香って……、平安時代かっての。サンタじゃないんだから、痕跡ぐらい残しとけよ。
 苦手な国語を朝っぱらから思い出してしまったことで、渋い顔になる。
 朝から千石の家に押しかけてやろうかとサボりの誘惑にかられながら、イスに座る。充電していた携帯をホルダーから外して、画面を開く。
 メール画面を開いて、送り先を登録リストから選ぶ。すぐに画面を消して、携帯を閉じる。顔も見えない電話とメールじゃ、いいようにごまかされるだけだということに気づいたのだ。
 なら、こっちも策を練らなくちゃね。やられっ放しは、性に会わないし。
 朝からずっと千石のことを考えて、この分じゃ夜になっても──。
 予想がつかないから気になるとか、多分それだけじゃない。
 放課後の対峙へと思いめぐらしながら、部屋を後にした。






クロスミとリョーマである日の夜の出来事で、まだ双方を模索中の二人です。
リョーマが怒っていれば怒っている程、キヨスミのことを深く思っている気がします。

08.10.02 up

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